学校の授業で「関心・意欲・態度」はわかるのか
こんばんは。イルカです。
またも年末年始の飲み会の議論の脳内整理ブログ記事です。
類は友を呼ぶというのか、こうした思考遊びが好きな友人が多いです。
子供のことを思うと教育について考える機会が増えてきます。親あるあるですかね。
学習評価の在り方について引用元
とりあえず検索して上位にでてきた学習評価に関する文科省HPのURLが以下になります。
また、文科省公式ではありませんが、横浜国立大学元教授の研修会資料がこちらになります。
http://www.ypec.ed.jp/gijyutu/hyouka/kanshin.pdf
「関心・意欲・態度」の評価軸
各教科が対象としている学習内容に関心をもち、自ら課題に取り組もうとする意欲や態度を児童生徒が身に付けているかどうかを評価するもの
正直、ザッと検索しただけでは「概念」的なものはでてきますが、現場の教師が具体的にどのように評価しているのか記されたものはでてきていませんでした。
ただ、昔と比べると評価軸が多少ですが変化しているような気がします。文字だけなので実情に沿っているかわからない前提ですが、昔よりは先生に媚びることだけで評価を高めるのが難しいような・・・?
授業の価値が万人に平等ではない問題
私が最も疑問に感じている部分がこれです。
「教科に対する関心・意欲・態度」を推し量るために「授業に対する関心・意欲・態度」を参照する場合、この2つのギャップを削ぎ落とす必要があります。なぜなら、これらは同一ではないからです。
そこで、授業が「教科に対する関心・意欲・態度」を満たす手段の一つとなる必要があります。問題となるのは、「理解度によって授業の価値に差がでてしまう」点です。
解決のためには、各生徒のレベルを均一とし、理解度の差を最小化する必要があるというのが持論です。
教科への「関心・意欲・態度」があっても、当人にとって価値がない授業には関心・意欲を持てるばずがありません。
個人の体験談
私の思想の根っこにある体験談を語ります。
私の小中学生時代は授業が退屈で仕方がありませんでした。それは、既に理解できていることを何度も何度も反復させられて飽きてしまっていたからです。極端な話、1+1を100万回繰り返したところで掛け算ができるようになるわけではないですよね。そして途中で嫌になります。それが私にとっての小中学校の授業でした。
こういった場合、私としては各教科にそれなりの「関心・意欲・態度」はあったつもりですが、当然授業への関心・意欲は低く、積極的な授業態度となるはずもありません。授業が退屈なので別のことをして遊んでいることもありました。そして、中間・期末テストが共に満点でも「関心・意欲・態度」で最低評価をつけられて評定が低かった教科もありました。
当時の私は「おまえがくだらない授業やってるからちゃんと聞かねーんだよ」と思っていました。
振り返ると、先生も問題は理解していて色々苦労されていただろうと感じます。授業が退屈だったのはかわりませんが。
ちなみに、実技科目は苦手で、さらに授業では上達方法を教えてくれるわけでもないので、実際の関心・意欲が低く評価もそれに見合ったものでした^ー^
授業は成績中位の生徒に合わせて行われる
私の体験のような事態に陥るのは、授業が成績中位の生徒に合わせて行われているためです。(主観込み)
公立学校への人の振り分けは、学力ではなく地域によりなされているので様々なレベルの生徒がいるのは当たり前です。
そこで、全体としての授業の価値を最大化するための手段として、成績中位の生徒に合わせて授業を行います。与えられた条件の中では1つの適した手段とも言えます。
先生もルールの中で最善な授業ができるよう悩んでいたのかと思います。
留年・クラス分け・飛び級について
理解度の差を消すためには、留年・飛び級・クラスわけの導入が効果的であると考えますが、課題も様々にあるようで。
留年について
何も理解していないのに無条件に進級させられた場合、本来学習すべき基礎を置き去りにして理解できない応用を何年間も勉強させられることにほかなりません。これほど無駄な時間はないでしょう。ただし、留年は「関心・意欲・態度」の向上には、必ずしも効果的とは言えないと思います。自分が他の同級生より○年分勉強ができていないという事実を突きつけられてなお、モチベーションを維持するのは難しいからです。そもそも評価軸が学校で学ぶわずかな数の科目しかないので、劣等感を感じてしまうのでしょう。なにか1つ自信の持てるものを見つけられると劣等感を感じにくくなるのではないかとおもいます。
不向きな科目を無理に学ぶ必要はなく、評価が低くても気にしなければよいと思います。あらゆる科目を苦手なくできるべきという考え方から変えるべきというのが持論です。
クラス分けについて
現状のルールの元では、同じ学年の中で成績に応じたクラス分けを行うことが現実的かと思います。上位クラスには高度な教育、下位クラスには復習を重視して基礎を身につける。これも留年と同じような問題を抱えていますが、導入への障壁は留年制度より低いでしょう。
飛び級について
飛び級があると、理解度が高すぎて授業が退屈な人間を救済できると思います。早い段階から能力に見合った高度な教育に触れ、子供の能力の停滞を防ぎ「関心・意欲・態度」を高めます。ただし、日本は出る杭を打つ文化があるので、周りの妬み、嫉みをどう解消するのかが難しい気がします。
自分の子供が自分と同じ思いをしないようにするには、学校に頼らずに自主的に取り組むことを教えるのが良いのですかね。学校という組織に全く期待が持てないので正直かなり悩んでいます。
議論の中での気づき(?)
本来の実力より高い成績となっている同級生は、特に価値のない「通知表の数字」のために先生に媚びる姑息なやつだと感じていました。ただ、顧客(先生)のニーズ、好み等を察知し、それに合わせたサービス(授業態度等での演出)を提供することができるのも能力という考え方も面白いと思いました。
私は人の気持ちがあまり理解できないタイプの人間なので、こういった能力を持っているのは羨ましいです。
当然、各科目の能力評価軸に含めるのは論外かと思いますが。
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